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気多神社(けた じんじゃ)は、養老2年(718年)に僧行基が創建したと伝えられています。また天平年間(757~764年)に越中一ノ宮として能登一丿宮の気多大社から勧請したとも言われています。なお、富山県内には気多神社を含めて「越中一ノ宮」を称している神社が4ヶ所(雄山神社・気多神社・射水神社高瀬神社)あります。
天文年間(1532~1554年)に上杉謙信の兵火にかかり焼失したため、永禄年間(1558~1569年)頃に再建したのが現在に残る本殿と云われています。構造は、三間社流造りで正面一間の向拝があり、屋根は柿板葺きで軒は二重繁垂木です。斗キョウは和様の三つ斗で、棟下の両側面柱の上は舟肘木を用いています。向拝斗キョウは同じ三つ斗で、正面虹梁上には蟇股(かえるまた)があります。向拝柱および前面第一列の方柱を用い、他の柱は全て円柱となっています。
正面三面および両側面は吹き通しで、意匠は簡易なつくりですが木割が大きく全体に雄大な風格の本殿で室町時代の特徴を見ることが出来ます。

この参道の階段を上った正面が拝殿で、その後方に本殿(国指定重要文化財)があります。本殿の近くまでは行けませんが、拝殿の左手に回り込めば比較的よく見えます。階段上部左側の大きな杉の木は気多神社の御神木です。

気多神社 略史
天平4年(732年):能登国一宮気多大社より御分霊(大己貴命:おおなむちのみこと)を勧請され、氣多大神(けたのおおかみ)として御鎮座たまわり越中國一宮氣多神社となる。
天平18年(746年):従五位下大伴家持第二代越中国守着任(751年まで)
天平宝字元年(757年):創建は、社伝によると越中より能登国が分立した後、能登・羽咋にある氣多大社を、現在地に勧請したものといわれている。一説によると養老二年(718年)に僧行基が開基したとも言われている。
延長5年(927年):当社は、越中国三四座の名神大一座として神名帳に登載される。
寿永年間(1182年)、天文年間(1532~55年):盛時には、越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺を始めとする大伽藍が並立していたと伝えられているが、寿永年間に木曽義仲、天文年間には上杉謙信と2度にわたる兵火で、ほとんど全てが灰燼に帰した。
永禄年間(1558~570年):現在の本殿が再建される。
正保2年(1645年):加越能大守前田利常候が当社を崇敬し神殿・拝殿などを修復する。
慶安3年(1650年):前田利常候が社領十石を寄進して孫綱紀の安全息災を祈願する。
明治2年(1869年):廃仏毀釈の令により当社本地物が旧国分寺跡の薬師堂へ還す。
明治6年(1873年):当社は縣社に列す。
昭和6年(1931年):国宝保存法により、本殿が国指定建造物となる。
昭和25年(1950年):文化財保護法により、本殿が国の重要文化財に指定される。社殿修理のため、本殿の解体工事に着手される。
昭和44年(1969年):氣多神社消防隊が結成される。
昭和51年(1976年):本殿の屋根柿葺(こけらふき)替工事完了。
平成8年(1996年):気多神社のにらみ獅子、高岡市指定無形民俗文化財に指定。
平成28年(2016年):本殿の屋根柿葺替工事完了。