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由緒

越中國総社 越中國一宮

延喜式内名神大社えんぎしきないみょうじんたいしゃ 氣多神社

主祭神  大己貴命おおむなむちのみこと  奴奈加波比賣命ぬなかわひめのみこと

相 殿  事代主命ことしろぬしみこと  菊理媛命くくりひめのみこと

古の頃、出雲の國と高志の國は海流に乗り交流していました。出雲の民が能登に渡り半島沿いに来てこの地に住み着き、氣多の神を祀る小祠を建てたと云われています。

社伝によると養老元年(717年) 元正天皇の御代みよ勅願ちょくがんされたと記され、越中國から能登國が分離した頃、その神威を高めるために改めて能登から分霊を勧請かんじょうし、氣多神社として再興されたと記しています。そして国守の崇敬社として越中國総社となり、後に越中國一宮となりました。『延喜式神名帳えんぎしきじんみようちょう』の最古の写本『九条家本』には、越中國34社のうち氣多神社を名神大社として記されています。

また聖武天皇のみことのりによりこの地にも国分寺が建立されましたが、空海が東大寺の別当となり真言院を設立すると、東大寺を総本山とする越中國国分寺も真言院へと変容し、「得照寺」「法土寺」「国分堂」「一過寺」「坊の上」など、49坊の堂塔伽藍が立ち並び、神仏混淆により氣多神社の社寺は神宮寺となりました。

しかし、寿永の末(1184年)に木曾義仲の兵火により社寺は悉く焼失し、その後に再建されましたが、天文年間(1532~1555年)越中争乱時期に上杉氏の兵火により、一社一宇(愛染堂)を残し再び灰燼かいじんに帰しました。その後に宥應ゆうおうなる人が僅かに法燈を守り、愛染堂を慶高寺の名のもとに神宮寺としての氣多神社を護持ごじしてきました。そして永禄年間(1558~1570年)に社殿が再建されましたが、江戸期の正保二年(1645年)加賀前田家三代 前田利常は殊更に本社を崇敬し、荒廃していた本殿・拝殿等を再築しました。それ以来、神社の維持は全て藩費にて成されていました。

しかし、明治維新による神仏分離令しんぶつぶんりれい版籍奉還はんせきほうかんにより、加賀藩からの庇護ひごは失われ社運は衰微すいびに向かいます。その窮状きゅうじょうに際し、明治24年(1891年)勝興寺連枝土山澤映しょうこうじれんしどやまたくえいや伏木湊の北前船廻船問屋など56名の有志により、氣多神社永続資金が供せられ、境内社域保持がなされ今日に至っています。

 

1本 殿

現在の本殿は、永禄年間(1558~1569)に再建されたと伝えられています。

構造三間社流造り、杮葺(こけらぶき)正面に一間の向拝を付け、軒は二重繁棰です。斗栱ときょうは和様の三ツ斗で、軒下両側の両柱の上は舟肘木を用いています。

正面の虹梁の上には彫刻した蟇股がありますが、これは後代に付け加えたものと思われます。向拝の柱及び前面の第一列に方柱を用い、他はすべて円柱です。正面の三面及び両側面の一面は吹き通しとし、意匠は素朴ですが、木割が大きく、全体に雄大な風格を備えています。氣多神社本殿は、室町時代の特徴が充分にあらわれており、作風が優秀であると評価され、昭和6年に国宝保存法により国宝に指定されましたが、その後昭和25年に文化財保護法制定により国指定重要文化財とされました。

 

2狛犬 一対(昭和36年 高岡市指定彫刻となる)

吽像高 92㎝ 阿像高 88㎝ 鎌倉時代の作

氣多の狛犬は、松材の寄木造りで、かつては布を張って漆と胡紛で彩色してありましたが、今は剥落してわずかにその痕跡を残しています。その姿は稀にみる力強さをもち、鎌倉期の逸品です。よってその当時、この像に相応しい相当立派な社殿を有していたと思われます。

 

3御宝物扁額へんがく

『氣多大社』 藤原 行成 (972~1027年) 真筆と云われています。

藤原行成は平安中期の公卿で、蔵人頭に抜擢されると、当代の能書家として三蹟の一人と数えられ、その書は後世「権蹟」と称されました。越中国は九条藤原家との繋がりが深く、延喜式神名帳の最古本の写本『九条家本』には、越中国氣多神社を名神大社として記しています。このような縁により扁額が納められたと思われます。

『一 宮』 空海 (774~836年) 真筆と云われています。

空海は遣唐使留学生として唐に渡り、その後、東大寺を賜り別当となり灌頂道場真言院を建立しました。東大寺は諸國国分寺の総本山であり、越中國国分寺も真言宗の寺院となり、神仏混淆により氣多神社の社寺は神宮寺となりました。そしてその頃に「一の宮」の社格を持ちました。空海は高野の地を賜り、私寺として真言密教の根本道場を開くべく、各国の真言寺院に勧進を願い、その際『一宮』の扁額が当社に配されたと思われます。当代の三筆とされています。

 

4氣多神社の清泉

二上山を清源とした地下水が、氣多の杜深くを巡り御清泉として湧き出でています。昭和61年 とやまの名水「六十六泉」に指定されました。

 

5越中総社跡伝承地

律令の時代、国々に国守が入府した時、その国の各地の諸神を巡り参拝することが職務の始まりでした。しかし時代が降ると、政務多端な国守はその国府に近い由緒ある神社に祭壇をしつらえ、諸神を迎えて奉幣する事としました。諸社を一社に総祀した社を総社と称します。

『延喜式神名帳』に記された神社が式内社と云われ、越中国には三十四座が式内社として記されています。その内で氣多神社は名神大社と記されています。

 

気多神社 略史
天平4年(732年):能登国一宮気多大社より御分霊(大己貴命:おおなむちのみこと)を勧請され、氣多大神(けたのおおかみ)として御鎮座たまわり越中國一宮氣多神社となる。
天平18年(746年):従五位下大伴家持第二代越中国守着任(751年まで)
天平宝字元年(757年):創建は、社伝によると越中より能登国が分立した後、能登・羽咋にある氣多大社を、現在地に勧請したものといわれている。一説によると養老二年(718年)に僧行基が開基したとも言われている。
延長5年(927年):当社は、越中国三四座の名神大一座として神名帳に登載される。
寿永年間(1182年)、天文年間(1532~55年):盛時には、越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺を始めとする大伽藍が並立していたと伝えられているが、寿永年間に木曽義仲、天文年間には上杉謙信と2度にわたる兵火で、ほとんど全てが灰燼に帰した。
永禄年間(1558~570年):現在の本殿が再建される。
正保2年(1645年):加越能大守前田利常候が当社を崇敬し神殿・拝殿などを修復する。
慶安3年(1650年):前田利常候が社領十石を寄進して孫綱紀の安全息災を祈願する。
明治2年(1869年):廃仏毀釈の令により当社本地物が旧国分寺跡の薬師堂へ還す。
明治6年(1873年):当社は縣社に列す。
昭和6年(1931年):国宝保存法により、本殿が国指定建造物となる。
昭和25年(1950年):文化財保護法により、本殿が国の重要文化財に指定される。社殿修理のため、本殿の解体工事に着手される。
昭和44年(1969年):氣多神社消防隊が結成される。
昭和51年(1976年):本殿の屋根柿葺(こけらふき)替工事完了。
平成8年(1996年):気多神社のにらみ獅子、高岡市指定無形民俗文化財に指定。
平成28年(2016年):本殿の屋根柿葺替工事完了。